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●池袋も大塚も西巣鴨の一部だった !? |
◎西巣鴨の紹介
@現在の西巣鴨
豊島区西巣鴨は、
明治通りを利用した場合は西巣鴨駅交差点からガン研通りと交差するまで、
都電を利用した場合は、西ヶ原四丁目で乗車し、巣鴨新田で下車するまでの地域です。
A昭和41年(住居表示変更)より前の西巣鴨
しかし、今日の住居表示になる前の西巣鴨は現在の地域の他に、
北大塚・南大塚・上池袋・東池袋などの一部地域が含まれる広範囲な地域を指していた。
大塚の地名は文京区内の地名で、住居表示によって現在の地名になる前のJR大塚駅付近は、駅から東側が巣鴨・西側が西巣鴨の地名でありました。
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大塚駅(住居表示実施前は旧西巣鴨にあった) |
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巣鴨警察署が北大塚一丁目にあったり、区立西巣鴨中学が南大塚三丁目にあるのもこのような経緯があったからなのです。
上池袋は旧堀之内町に旧池袋八丁目・旧西巣鴨二丁目の一部が加わって現在の住居表示になった。 |
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現在のサンシャインシティのある場所も、現在の住居表示が実施される前は旧西巣鴨一丁目であった。
明治28年(1895年)
警視庁監獄巣鴨支署として巣鴨村に設置。
その後、巣鴨監獄・巣鴨刑務所・東京拘置所と名称を変更。
昭和46年(1971年)に小菅に移転した。
戦後占領軍に接収された時に巣鴨プリズンと呼ばれていたのは有名。
昭和53年(1978年)跡地にサンシャインシティがオープンした。
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サンシャイン60ビル
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住居表示変更
変更年月日 |
現在の住居表示 |
●※旧西巣鴨から変更になった住居表示 |
昭和41年1月1日 |
西池袋 |
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昭和41年11月1日 |
東池袋・南池袋 |
※旧西巣鴨一丁目→東池袋 |
昭和44年1月1日 |
北大塚・南大塚 |
※旧西巣鴨二丁目→北大塚・南大塚 |
昭和45年1月1日 |
巣鴨 |
● |
昭和45年4月1日 |
西巣鴨・上池袋 |
※旧西巣鴨三・四丁目→西巣鴨
※旧西巣鴨二丁目の一部→上池袋 |
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B昭和7年(豊島区成立)より前の西巣鴨
明治22年町村制施行により、巣鴨町・巣鴨村(その後の西巣鴨町)が成立。
大正7年巣鴨村が町制施行により西巣鴨町と改称。
昭和7年北豊島郡に属する巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町が合併し豊島区が誕生した。
合併前の西巣鴨町は現在の豊島区西巣鴨以外に、北大塚・南大塚・東池袋・西池袋・池袋・池袋本町・上池袋にまたがっていた。
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●教育・社会福祉の街−西巣鴨
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現在都営地下鉄三田線の西巣鴨駅付近では、大正大学や淑徳巣鴨高校の学生を多く見ることができる。
明治から大正にかけて多くの学校が移ってきた西巣鴨町。かって西巣鴨にあった学校や理想に燃えた教育者たちの痕跡が現在も残っている。住居表示前の西巣鴨の範囲で、その痕跡を訪ねてみたい。 |
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大正大学
西巣鴨3-20-1
明治20年(1887年)宗教大学設立
明治41年(1908年)宗教大学現在地へ移転
大正14年(1925年)
天台宗大学、豊山大学、宗教大学合併。学生を仏教連合大学(大正大学)に編入
大正15年(1926年)大正大学設立 |
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大正大学 |
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明治女学校跡
西巣鴨2-14-11
明治女学校は明治18年(1885年)に木村熊二によって麹町飯田町に設立された。
明治29年(1896年)明治女学校は巣鴨村に移転。明治41年(1908年)には閉校になった。
その後明治女学校跡地は、帝国大学運動場をへて現在は西巣鴨児童館・特別養護老人ホーム・東大豊島学寮となっている。
明治女学校は島崎藤村・北村透谷・星野天知などそうそうたる講師陣を有した。
そしてフェリス教会のキリスト教精神による自由な思考と独創的な発想を重んじる教育をめざした。
明治女学校に学んだ女性で“明治女学校の三羽烏”といわれた羽仁もと子・相馬黒光・野上弥生子が昔から有名である。
羽仁もと子は
明治36年(1903年)雑誌『家庭の友』(現在の婦人之友社)創刊。
明治37年(1904)日本最初の「家計簿」を発行。
大正10年(1921年)に自由学園を開学。
相馬黒光は
新宿中村屋をおこした女性として有名。
野上弥生子は夏目漱石の門下生であった夫野上豊一郎を通して、漱石の教えを受け小説を書き始めた。以後、昭和60年3月30日に99歳でなくなるまで「秀吉と利休」「真知子」「迷路」など多数の作品を発表した。
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明治女学校記念碑
西巣鴨児童館 |
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東大豊島学寮
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特別養護老人ホーム
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家庭学校跡
上池袋1-37-1
1899年(明治32年)留岡幸助によって巣鴨村に家庭学校設立。
1898年(明治31年)留岡幸助は巣鴨監獄の教誨師※となった。
留岡幸助はアメリカ留学や教誨師の活動を通じて、下記のことを発見した。
@「悪い環境から青少年を保護する場」となる家庭が崩壊しているために犯罪者が生成される。
A崩壊した家庭で育つことが「犯罪の原因となる人格」にも影響している。
そして、非行に陥った少年や少女にとって家庭を与えられることが大切であると悟り、これを創造しようとしたのが「家庭学校」である。
1914年(大正3年)北海道上湧別村社名渕に払い下げを受け、北海道家庭学校を開設した。
(遠軽町字留岡)
1935年(昭和10年)杉並区高井戸へ移転した。
現在の社会福祉法人東京家庭学校。
(杉並区高井戸東2−3−4)
家庭学校跡地はその後癌研究会の癌研究所・付属病院などとして利用された。
平成17年3月癌研究所・付属病院ともに、江東区有明3-10-6(臨海副都心)に移転し、付属病院跡地に都市機構の住宅・ピーコックストア・セントラル上池袋などが建ち、巣鴨学園側の癌研究所跡地が区立上池袋東公園として利用されております。
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ありし日の癌研付属病院
※教誨とは、刑務所や少年院など矯正施設の被収容者に対して行う精神的・倫理的・宗教 的な教化活動です。その目的とするところは、被収容者の心情の安定、徳性の涵養、精神的救済などです。
教誨に従事する者を教誨師と云います。 |
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真宗大学跡
上池袋1-32-3
1901年(明治34年)
京都高倉から巣鴨村に移転、学制に根本的改革を加え近代的な文科大学を開校
1911年(明治44年)
京都の高倉大学寮と統合するため洛北に移転し、真宗大谷大学と改称する
(現在地は京都市北区小山上総町)
1922年(大正11年)
大学令による大谷大学設立
真宗大学跡地は現在JR東日本社宅や分譲マンションになっている。平成12年宮仲公園に「大谷大学開学の碑」が建立された
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JR東日本社宅
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マハヤナ学園跡
西巣鴨2-36-17
1917年(大正6年)
宗教大学(現在の大正大学)の社会事業研究室ができた。
そして長谷川良信※を中心に大学の近くにあった二百軒長屋で夜学・人生相談など社会事業を開始した。日本のボランティアの源流ともいえる。
※大乗淑徳学園の創立者
1919年(大正8年)
社会福祉施設マハヤナ学園夜間部として創立。
1931年(昭和6年)
マハヤナ学園夜間部は、巣鴨女子商業学校として開校。
1936年(昭和11年)
マハヤナ診療所開設。現在の巣鴨病院。
1972年(昭和47年)
巣鴨女子商業学校から巣鴨女子高校になる。
1985年(昭和60年)
巣鴨女子商業学校から淑徳巣鴨高校になる。
1996年(平成8年)
淑徳巣鴨中学校開校。
※現在、淑徳巣鴨中学・高校は校舎新築のため、旧朝日中学跡地に移転している。
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淑徳高校第二体育館 西巣鴨2-36-17
下記の彰徳碑が入口近くにある。
マハヤナ学園彰徳碑 |
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淑徳巣鴨中学・高校
西巣鴨2-22-16
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在りし日の巣鴨病院
西巣鴨2-36-18
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大都映画巣鴨撮影所跡
西巣鴨4-9-1
1919年(大正8年)
天然色活動写真株式会社が所有し、仮設ステージ設置したのが撮影所のはじまり。
1927年(昭和2年)
河合商会所有になる。
1933年(昭和8年)
河合商会、大都映画に名称変更。
1942年(昭和17年)
大都映画、大映に統合されて巣鴨撮影所を閉鎖。※
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朝日中学校跡地
西巣鴨4-9-1
大都映画巣鴨撮影所跡地は区立朝日中学校になった。
朝日中学校のレンガの塀に左のプレートが設置され、ありし日の大都映画巣鴨撮影所のことを紹介している。
朝日中学校は大塚中学校と統合するため、平成13年3月31日に両校とも閉校された。
大塚中学校の場所に新たに巣鴨北中学校が同年4月1日開校した。
写真撮影時は、淑徳巣鴨中学・高校が校舎新築のため、旧朝日中学校跡地に仮校舎を建て移転していた。現在同校は校舎が完成し移転しました。
豊島区は旧朝日中学校跡地をNPO法人へ無償で貸与し、当該NPOが自主的な管理運営を行っていくことになっています。
現在、旧朝日中学校跡地は、「にしすがも創造舎」と改称し、舞台芸術関係者の稽古場をはじめ、ワークショップや地域交流事業等の場として活用されています。当該NPOと文化芸術団体・区が連携しながら、各種文化芸術事業を実施していくことになっていました。
しかし、その後巣鴨北中学校が校舎建て直しのため移転してきて仮校舎となってしまいました。
令和元年9月新校舎が完成し移転したので、将来特別養護老人ホームに活用される予定です。
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都営地下鉄三田線の西巣鴨駅から、巣鴨方面に向かって中山道の歩道を歩きます。
朝日中学校跡地を過ぎるとまず最初に正法院が見えています。正法院は天平年間に行基によって建立された名刹です。
正法院から横道を入っていくと西方寺・盛運寺とお寺がならんでいます。
西方寺は江戸時代吉原の近くにあり、無縁仏となっていた吉原の遊女たちの供養をするために建立されました。
そのまま横道を歩くと都電荒川線の踏切を越えお岩通り商店街にでます。
王子方面に向って歩き次の横道を左折し、都電荒川線の踏切を越えると妙行寺があります。妙行寺は四谷怪談のお岩様のお墓のある寺として有名であります。
入口にお岩様之寺妙行寺の石碑が建っています。近くのお岩通り商店街の名前にもなっています。
妙行寺から善養寺・清厳寺・良感寺とお寺がならんでいます。
西巣鴨4丁目8番は由緒あるお寺の多い寺町なのです。 |
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正法院
西巣鴨4−8−46
正式には慈雲山長栄寺正法院
天台宗
730年(天平2年)
行基によって下谷に建立。
1627年(寛永4年)
山王台下に移転。
1698年(元禄11年)
上野屏風坂に移転。
1737年(元文2年)
下谷車坂に移転。
1868年(慶応4年)
神仏分離により、下谷稲荷(現下谷神社)を分離。
1905年(明治38年)
下谷車坂より現在地に移転。
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正法院 |
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西方寺
西巣鴨4-8-43
正式には弘願山専称院西方寺
浄土宗
1622年(元和8年)
浅草聖天町に建立。
江戸時代吉原の近くにあり、三ノ輪の浄閑寺とに遊女の投込み寺であった。
二代目高尾太夫の墓もある。
1927年(明治24年)
浅草聖天町より現在地へ移転。 |
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西方寺 |
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盛雲寺
西巣鴨4-8-40
正式には三宝山歓喜院盛雲寺
浄土宗
1615年(元和元年)
下谷北稲荷町に建立。
1908年(明治41年)
現在地へ移転。
新門辰五郎の墓
新門辰五郎は江戸の町火消の大親分。
辰五郎の義父、浅草十番組に所属する町火消の頭領であった町田仁右衛門が東叡山輪王寺宮の衛士であったため、輪王寺宮が浅草・浅草寺の別院「伝法院」に隠棲する際、新しい通用門を新設し、その門を辰五郎が守ることになった。
それで新門辰五郎と呼ばれる様になった。
また、辰五郎の娘お芳は慶喜の妾。慶喜の在京時代子分を率いて警護した。江戸城開城後慶喜に従い駿河まで同行した。 |
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盛雲寺 |
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妙行寺
西巣鴨4-8-28
正式には長徳山妙行寺
法華宗陣門流
1624年(寛永元年)赤坂に建立。
その後四谷鮫ヶ橋南町へ移転。
1909年(明治42年)現在地へ移転。
お岩様のお墓
浅野内匠守夫人の遥泉院供養塔
魚がし供養塔、
魚河岸組合
うなぎ供養塔
東京うなぎ蒲焼商組合・淡水魚組合 |
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妙行寺本堂 |
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「お岩様之寺妙行寺」石碑 |
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魚河岸供養塔 |
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善養寺
西巣鴨4-8-25
正式には薬王山延寿院善養寺
天台宗
825年(天長2年)上野山中に慈覚大師によって創建。
1624年〜1644年(寛永年間)
下谷善養寺へ移転。
1972年(明治45年)
現在地へ移転。
◎「江戸三大えんま」のえんま大王像がある。
新宿 太宗寺 杉並 華徳院
運慶作のえんま大王像があったが、天保のころに焼失してしまった。
本堂にお参りすると、高さ3mのえんま大王像には光で照らされ迫力満点である。
えんま大王はお地蔵様の化身といわれ、えんま大王が検察官・裁判官、お地蔵様が弁護士のような関係。
巣鴨はとげぬき地蔵尊・江戸六地蔵尊のひとつ真性寺の地蔵尊があるお地蔵様の町。
江戸三大えんまのひとつのえんま大王像が当山にあるのも何かの因縁なのかもしれない。
◎尾形乾山の墓
尾形乾山は1663年(寛文3年)京都の呉服商尾形宗謙の三男として生まれました。
兄は有名な尾形光琳。
野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、1699年(元禄12年)37歳のとき京都市の鳴滝の泉谷に開窯しました。
1731年(享保16年)69歳の頃に輪王寺宮公寛法親王を頼って江戸に下り入谷に窯を築いて陶器や絵画の制作に手腕を発揮し、晩年をおくりました。
1743年(寛保3年)81歳で没。
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善養寺 |
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清厳寺
西巣鴨4-8-24
正式には長仙山清厳寺
曹洞宗
1615年(元和元年)創立。
1922年(大正11年)
小石川小日向台町より現在地へ移転。 |
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清厳寺 |
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良感寺
西巣鴨4-8-22
正式には安同山和順院良感寺
浄土宗
1626年(寛永3年)小石川同心町に建立。
下谷坂本に移転。
1914年(大正3年)
現在地へ移転。
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良感寺 |
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●庚申塚その他
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庚申塚
巣鴨4-35-1
庚申塚は道路をはさんで巣鴨にある。
都電の庚申塚停留所・新庚申塚停留所はともに西巣鴨にあるので、西巣鴨とも関係が深いので紹介します。
1502年(文亀2年)建立。
ここは昔中山道の立場(休息所)で茶屋があり、旅人は一服した。
旧中仙道と折戸通りの交差路に立つ。
折戸通りは、この交差路より北を王子道、南を大塚道といった。
庚申堂には猿田彦大神がまつられている。
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江戸名所図会が描かれている石碑 |
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庚申塚入口 |
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庚申堂 |
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延命地蔵尊
西巣鴨2-39-5
旧中山道からちょと横道に入った場所にあり、街道での横死者や辻斬りの犠牲者、長旅に疲れ行き倒れになった人や馬の供養のために文政年間(1818−30)に建立されたものと伝えられる。 |
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延命地蔵尊 |
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王子電気軌道(株)本社跡
西巣鴨2-39-5
都電荒川線の巣鴨新田停留所近くに王子電気軌道本社及び車庫があった。
現在東京電力大塚支社が建っている。
1911年(明治44年)王子電気軌道(株)は開業した。
1942年(昭和17年)陸上交通調整法により王子電気軌道は東京市に統合され市電となった。翌年から東京都成立により都電となった。
現在の都電荒川線は、王子電気軌道時代にその大部分を専用軌道によって敷設されたため今日まで残ることができた。
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東京電力大塚支社
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都電荒川線(飛鳥山停留所) |
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都電荒川線(新庚申塚停留所) |
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